2026.10.4── 一回の秋晴れ / あなただけの孤独
2026.10.05
人生に何度とない秋晴れだった。
というよりも、その一回性においては、
人生に二度と起こり得ぬ秋晴れなのだった。
一周回って、どこかで捻れて、こんな気持ちを知りたくなかったとすら思う。
飛び跳ねるような歓びに身を圧されると、
人は突っ伏して泣くのだ。
”今の気持ちを、ずっと忘れたくない。
この気持ちを忘れるのは映画監督を辞める時──”
この文字列は、以前自らが口にしたものであると気づくと、
白い机の記憶が薫って、
映画『溺れるナイフ』が公開規模に比しての最大ヒットとなり、大入袋をもらった時のことだった。
龍の軌道にいる気持ち、
いつも現れるわけじゃないくせに、
眼が合うと、いつだって必ず乗せてくれる。
幻の生き物のはずなのに、この背中の皮膚には実在感がある。
それでも、その果敢の最中にあってなおも、
こんな未来があるなんて、
想像していなかった。
すべての映画はアーカイブされ、いつでも引き返せる利便性と引き換えに、その頃にはもう、かつて希求された暗闇の存在は、忘れ去られてしまうだろう。
未来、ユビキタスに「作品にアクセス」できるのだとしても、絶対的に、この現在にしかすくわれないものがある。
封切り直後の映画館の暗闇にだけある、
光と、音と、物語とを待ち望む、
あの熱く張り詰めた緊張感、
その体験は、このたった今にしかできない。
発展すべく約束された未来に誓ってなお。
大衆映画とは、公共に許された暗闇というフレームに、意志を持ち集う時空において、つまりは極私的な(と同時に、公共的な)劇場体験を経ることによって初めて完成する、
双方向的であることを超えた──全方向的なインスタレーションでもあるのだ。
(話が逸れるが、ここで重要なのは、スクリーンというフレーム/光の外には、それを包摂するフレーム/暗闇が入れ子構造のように存在しているという点だろう。ここに母子像のようなイメージを発見するのはあまりにも容易い──そこに神聖と陥穽が共にある。)
情報ではなく体験であるという一点に、保証される、壊れやすく儚い、だからこそ人間と同じに尊い一回の芸術である。
映画館に行きたい。
書を捨てて、街に出て、映画館に!
満席の劇場内で、映画『ママがもうこの世界にいなくても 私の命の日記』が観たい!
この秋晴れを終えたら、生涯、手に入らないものかもしれないから。
光を浴びたい。
あなたの隣にずっといたい。
どうか、今満ち満ちてゆく映画館で、あなただけの孤独を見つけてほしい。
それこそが、この映画を、いちばん贅沢に感受していただける最善の方法であることを、映画の神様に、言い換えればあなたに誓って約束します。
そのためにこそ、あなたの街の映画館を、こじ開けたのです。
この世に、大衆映画以上の芸術などないことを、21世紀を生きた一人として、この魂を以って証明したい。

2026年10月1日21時頃
公開前夜舞台挨拶を終えた
ユナイテッド・シネマ豊洲にて
撮影:小野啓





