2026.10.31── もっともうつくしい倒錯を
2026.10.31
世界でいちばんうつくしい絵を描く人は、
どんなことに、その力を使いたいと願うだろうか
幾千の選択肢があり得た中で
止められない力の奔流の内で
月が静かに道を照らしている
彼の足元に影が伸びて
褒められるためでも、
偉くなるためでもなくて
そういう道を歩いてゆく
──まだお会いしたことのない彼を思う時、
夜の道を歩いてゆく青年の姿が思われる。
何か声をお掛けしたいけれど、
彼自身が、道を選び取ろうとする最中(さなか)にあるのだ。
それを邪魔してはならないと、老婆心のように思う。
光の屈折を待つような日々。
ただ、この空に、届くように描いてゆく。
太古から、人は空へ心を投影し続けてきた。
かつてのスクリーンとは空のことだったろう。
そしてスクリーンに空を映す。
空を描く──
間違いなく彼は、人の心に寄り添うために描いている。
その音が、東京のどこかから、聞こえる。
目を閉じれば、聴こえる。
自分は、そういうことの中で生きているのだと思う。
それは祈りであり信仰である。
その人が存在しているというだけで、ただ、生きてゆけるということがある。
新海さん。
新海さんは、どんなことを感じながら生きているのだろう。
一つの吐息も、迷いも、無限に複製される。
地球を覆い尽くすほどの光を浴びて、
一寸も誤魔化しの効かない裁量の待たれる、
緊張の中を、泳ぎ続けている、
そんな場所にいるたった一人のひと。
この星の上に、ただひとり。
分裂されゆくことが約束された自己像よりも、ずっと、
いつも、彼方のあなたを見ている。
もしも世界でいちばんうつくしい絵を描けたら、
どんなことに、その力を使うだろうか──
幾千の星を描く。雲を描く。雨を描く。桜を描く。
この世界のために、さながら祈るように、その力を使わんとすることを、
月光の下を歩いてゆく青年は、既に覚悟していたのだろう。
その力を使い果たす一筋の道を。
いまだお会いしたことのない新海誠さんを想うとき、
目を瞑ると、そこに映画そのものが立ち昇るようだ。
星が流れ、雲が走り、雨が光り、桜が祝福のように舞い散る。
新海さんは、どんなことを感じながら生きておられるだろう。
それは誰にも届かない場所にある──
それでも、彼の作品が!
この時代に、巡る季節に、
スクリーンへと到来する、そんな奇跡のたびに、
月光の照らす所に、いつの日も青年は佇む。
映画館の暗闇で確かめる日が、日夜、近付いてくる。
その日の東京は、どの座席も、満席だろう。
誰しもの深い吐息を感じながら、
新海監督のまなざしに圧されるように、
その120分間を生きたい。
それは約束されている。
そこに彼の魂が光ることを。
その時、わたしの魂はどこにあるだろう。
新海さんの新作を、目を逸らさずに見つめられる自分でいたい。
そうあれるように、生きてゆかなければいけない。
新海さんが、どんなお方なのかをまだ知らない。
でも、作品を通して、世界でいちばんうつくしい幻を通して、
もう、その人の純粋を、誰よりも証明できる気ですらいるのだ──
そんな想いを鏡とする人が、この世界に数え切れずに、そしてこの先も、生まれ続ける。
それでもなお暗闇ではたった一人、
その映画は自身にだけ向けられているのだという、もっともうつくしい倒錯を、待ち焦がれるだろう。
いつか、新海さんの瞳を見つめる日が、この人生に訪れるのならば、
なんだっていいと、苦しみごと頑張ろうと、一筋の道を歩いてゆきたいと思う。
たとえその日が訪れなくても、もう既に溢れて仕方がないものを、
何よりもうつくしいものを、注いでいただいた、今だったのだと思います。

10月21日、寝落ちして、午前1時に飛び起きた夜、静まり返った家の気配、
胸がふるえて、ざわめいて、ものすごい竜巻のなかにいた。
その感触のすべてを生と呼ぶ。
心が壊滅されるような、燃えるようなよろこびのなかにいました。






