2026.10.3── 田舎のシネコンから / あなたの大切な人
2026.10.03
大切な人と映画を観ることは、人生の体験になります。
中学生の時、お父さんと映画『黄泉がえり』を、愛知県のイオンシネマで一緒に観たこと、劇中の歌を大好きになったこと、ずっと忘れません。今でも、口ずさめるから。
中学生の時も、高校生の時も、ショッピングモール内のシネコンで、映画を観ました。
女の子とも、男の子とも観ました。
デートといえば、それしかなかったのです。
夏となれば、市の運動公園の花火大会へと、校内のあらゆる小集団が寄り合い、
週末を迎えれば、学校中の誰しもが、イオンにいたのですから。
デートには、大衆的な恋愛映画を観ました。
その時の座席の位置感覚、黒い天井の高さ、パートナーの服の質感を覚えています。
特別、映画自体を観たかったのではなくて、その人と、共にいたかっただけなのでした。
田舎のデートでは、意外性は求められておらず、より正確には、意外性を実現する手立ては途絶されており──映画のセレクトひとつとっても、出口で滑りそうなもの、その道程がブラックボックスに入れられているものは、本能的なスクリーニングにより──選択の俎上にすら見つけられなかったのかもしれません。
商品パッケージが、鑑賞後の感慨までをも想起させ、規定させてくれるものだけが、映画という娯楽の価値でした。
安全な設計を経なければ、地獄への道すら、常にひらかれているのですから。
それこそが、最もおそろしいことだった。
その無知を、肯定的な郷愁とすることは叶いませんが、ただ愚かだったのだと、笑い捨てることもできません。
全力で生きていました。
その事実が、美化も卑下も拒絶する。
狭い世界で、狭い視野で、狭い選択肢の中で、全力で生きていたのです。
そしてそのような、同質的な経験が積み重なった先、一つの真実を、獲得することとなります。
つまりは映画館の暗闇が、一つの身体感覚へと、ある確信を与えるのでした。
──そのパッケージが、そのラッピングが、どれほど甘やかであり、定番であり、王道であり、一切のサプライズが起こりそうにない消耗品と見えたとしても、
あのスクリーンに、人間が、映ってさえいるならば、あの矩形に、身体と心が、切り取られてさえいるならば、そこには、〈驚嘆/ワンダー〉が、疑いなく起こるのです。
その傍らに、共に光を見上げる人々が、共にいさえすれば、そこには、〈共感/シンパシー〉が、どこまでも、許されているのです。
この暗闇の内を貫通する光と音に、身を浸す覚悟のある者にのみ、辿り着ける地平があり、そこには、〈メッセージ〉が、届き得るのです。
そのようなことを、わたしは、映画の力そのものとして、田舎のシネコンから、受け取ってきました。
この暗闇のなか、わたしのいちばん大切な人が、誰よりも近くで、息を潜めて、息をしていること、そんな体験は、映画館でしか得られなかったから。
中学生の時に観た映画も、高校生の時に観た映画も、もう1シーンも思い出せなくなってしまっても、あなたの息遣いだけを、ただ、覚えている。
あなたとわたしが、共に生きていた記憶が、映画館には、永遠に宿る。
映画『ママがもうこの世界にいなくても 私の命の日記』を、どうか、あなたの大切な人と、一緒に観ていただけませんか?
ショッピングモールのフードコートで、吹き抜けに架かったエスカレーターで、無尽蔵の駐車場で、離れがたい帰り道に、生きる歓びも、暮れゆく哀しみも、そこには全てが宿っていたことを、照らし続ける映画なのです。
あなたのかけがえのない週末、有限の時間、想いのリソース、それらが賭される場所、
その選択肢に、なんとしても紛れ込みたい。
その価値がある映画だと、どうか約束させてください。
その暗闇のなかから、生まれ出たひとりとして。

映画『ママがもうこの世界にいなくても 私の命の日記』
2026年10月2日(金)全国ロードショー
https://www.mamaseka-movie.com/










