初出:河出書房新社「文藝」 [2014.7.7]

所収:河出書房新社『十年後のこと』

https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309025193/
………
──君を得(う)る
私の指は三本で、それはやっぱり珍しいことなんだろう。君はそれでも優しい声で、「気にしなくて良いよ」と笑ってくれるけれど、触れ合うことすらままならない。ああ、せめてあと十年若ければ。まだくっついているところの指先を使って、君の前髪を挟み込むように動かせば、こそばゆそうに笑っている君の眼差しがある。私の不甲斐ない動作を、まっすぐに受け入れている。黒い髪、黒い眼が、劇場の暗闇へ溶けてゆく。
初めて会った日も映画館だった。じりじりとまばたきを進めれば、肘置きの上の白い指、手首、肘、二の腕、首、顎、あなたの眼。けむりのように君の匂いがする。そのまま一回も目をそらさずに、あの日も笑って見せたのだった。今ここに向かって生きて来たのだとしか思えずに、このかた馴染まなかった世界との接合面ぴったりと、えぐり出された私の存在。君の目線に縁取られ、初めてはじける私の肉体。
いつだって同じ静寂を持ち寄って、私たち光を浴びることが出来た、一時間半でした、君の白い横顔だけが、スクリーンを縁取っていた。何度も映画を観ましたね、一個一個を教えてくれた。細い顎に指を当てて。いつも遅れて来る。あの頃は君を、指折り数えて待つことだって出来たのだ。いま君と、触れ合うことすらままならない今日がある。
いつだって私の耳に向かって話した。建築のちからも、彫刻の誠実も、絵画の色情も、音楽の情熱も、詩の果ても、写真の不和も。それらを前にした、いまや拍手さえもままならない私は、指を咥えて見ていたのだった。ひたすら丁寧に、教えてくれた、君と一緒に。安易な、あまりに安易かもしれない、問い、どうして私だったんだろう。世界の美しい部分を、君が切り取っているみたいって、いつでも私は思っていたの。私の指が三本だなんて、世界のきまりが、ここだけ綻んでしまっている。
私の指の三本で、映画を撮るには困らない。それでも私は泣いてしまう。君の笑顔のあざやかに。私の映画を「良かった」と、黒い毛束が揺れる度、世界が瞬いてゆくようだ。客席の君がそうするだけで、怒号のような大喝采が響くのです。白く発光しているのは、カメラのフラッシュか、君の面影か分からない。
だから毎回一本一本、ひきちぎられてゆくようだった。けれどもだんだん、ポークビッツみたいに飛んでゆくのが、おかしかったね。痛覚はどんどん鈍くなっていって、季節の中のいち行事として、惰性におとしこまれていった。それでもずっと、予感があった。
それを避けるために、私たちは全力を尽くすべきだった。はらはらと呼吸が熱くなり、赤い血が吹き出るのを、生け贄の気持ちになって、お互いを捧げ合うことの高揚よ、裏返しの祝祭を生きていた。
一年ずつ、一本ずつ、タイムリミットが来ていた十年だった。一本ずつ切り落とされた。最後の方は、こんなに悲しいのに、できるだけ悲しくない部分を持ち寄るように、ぼうっと君の頬を見つめながら。汗が、私の目にしか見えない形で、暗い影を、落とすのを、今直ぐぬぐってあげたかった、けれど。
その日は雪ががんがん降って、嬉しいけれどもなす術がない皮膚感覚が支配する。ポーカーフェイスとでも言うべきなのか、思惑の伝わってこない表情で、私に触れて良いのか聞いたのでした。どうして許可制なのって笑ってしまった。どうして許可制だったの。数えきれないくらい触れてもらった方が良いに、決まっていたのに。たった一つの解答のようにも思えたし、大きく規範を違反しているかの、なぞる、最後のみちすじ。あなたは震えている?
そうして冷たくなってゆく、切り落とされちまった分の指。誰かの体温に傷つくのは、後にも先にもこれが初めて。これで十本。これで十年だね。私に触れた君の指。
建築も彫刻も絵画も音楽も詩も写真も、あんなに一緒に愛したけれど、作り出すことはできなかった。それでもなんとか映画を撮った。「第七芸術」であるところの映画を撮った私の指は、三本残った。
そして君の指は、その実、もう一本もなくなってしまっている。何も、表現しなかったから。可能性が死ぬまでの時間、十年が経ったのた。
私の指は三本で、それはやっぱり珍しいことなんだろう。君はそれでも優しい声で、「気にしなくて良いよ」と笑ってくれるけれど、触れ合うことすらままならない。ああ、せめてあと十年若ければ。本当に、ちがった?
私の指は三本になって、あなたのために生きてあげられない。どうなったって、お別れのみが眼前にある。せっかく映画を撮ったのに!撮ったから?君の映画を撮りたかった。私の方が泣いてばかり。私の指を、引きちぎって君にゆずってあげたいよ。そう言うと、君が肩をふるわせて閉じたのだった。黒い髪、黒い眼、白い指、それらが、私の青春のすべてだったのだ。私の青春のすべてのために。いつだって私のために、何が出来るか、ひとつひとつを注いでくれた。私に触ることだけに、費やされた君の指。
君の瞳は鳴り止まず、顎、首、二の腕、肘、手首、私はもう目をつむってしまう。映画が暗闇に溶け始める。いつかは君の鮮烈すら、私の日常に溶けてゆくのか。あなたの暖かい手の感触は、今でも私の指先にあります。今君が、この小説を読めているかも分かんない。たとえば風の気まぐれならば。ページに風は吹いていますか?
私の指は三本で、私は映画を撮っています。過ぎ去りし日あなたの、何気無いひと撫でが、十年後、わたしのフィルムに有り得ない爆発を巻き起こす。
君とはもう、触れ合うことすらままならず、あなたが作品を創造することも、もうない。
それでも、楽器を弾けなくても、絵を描けなくても、あなた自身が芸術だから、生きていてほしい、あなたがスポットライトを浴びることは未来永劫無いけれど、十億光年を経て降り注ぐ光のもとで、輝いていてほしい。君の指の断面から、美しいままで静止した細胞が見える。